自分自身が良いと思うサービス。
そーいうお題がでたらしい。
来春、某音楽系リテールに就職する大学生からのお話である。
ふむふむ、それは興味深い。
それについてオリハシも考えてみた。
もちろん、オリハシ自身が一人の消費者として思うことである。
自分自身が良いと思うということは自分自身が好きな。。。という風に言い換えても問題ないだろうか?
う~ん、どーだろ?
いつも思うんだけど、定量化できてマニュアル化できるサービスは、サービスではあるけれどそんなに感動はない。それなりに満足です。という程度なのだ。
そーではなく、相手の引き出しいっぱいいっぱいのサービスを引き出せるか?どうか?というところの方が興味がある。
「あのサービスはよくなかった。」とかあとから批判するのがオリハシが好むところではない。そもそもその店をチョイスしてしまった自分自身を責める。「ほどほどだな、」って思ってもどこか底が深そうなお店は何度も通い詰めたくなる。ついでに言っておくと自分が客であるとき、「オレは客だぞ」という態度をとるのが一番嫌いな行為なのである。
金を積めば誰でも享受できるサービスもあれば、
どんなに大枚を叩いても、受けられないサービスっていうのがある。
それは、サービスする側とされる側のシンクロニシティに他ならない。
それは心理的にこう思わせる。いや思ってしまう。
「あっ、オレだけ特別扱いしてくれたんだ。」と。
調子に載りやすいオリハシはこうも思ってしまう。
「オレのコミュニケーション能力の高さがこのサービスを引き出させたんだ。」と。
まったく、やれやれな人になってしまうのだ。
もう一人の商売人オリハシはつっこみを入れる。
「おい、バカ、調子にのるなよ。」と。
実は「特別扱い」というのはホントなのだが、「あなただけ」というのは幻想なのだ。だって同じように「特別扱い」してるから。
「大衆操作とはあなただけ特別だよ、と思わせながらみんなに同じ事をすることだ。」と看破した経済学者がいた。が、厳密に言うと「特別扱い」という点に置いては同じだが、その方法論や内容は個々人において微妙に異なる。というのがオリハシ的である。
きもちいいところは似ていてもちょっとずつ違うでしょ?
そのキワの部分は決して定量化出来ないしマニュアル化できない。
皮膚感覚で研ぎ澄ましていくのである。
一人の客であるときも、ナクールにいるときも日々、そのインターフェースを研ぎ澄まそう。微力ながらそう努めている。日々、身体で勉強である。
抽象的でわかりにくい話ですまない。
でも、今はそーとしか言いようがないのである。
具体的であればあるほど、野暮で安っぽくなってしまうのがサービスというものも本質かもしれない。
いつか、もう少しうまく伝えられるときがくるのを待とう。