「待つ」ということ(著:鷲田清一)
久しぶりに鷲田先生の本です。
やっぱ、おもしろいです、この人は。
大阪大学の学長に就任されたそうですね、夏頃、新聞を賑わしてましたね。
オリハシ自身がどんな影響を受けたか?はこちらをどうぞ。
「待つ」ということ。
もう、タイトル見ただけでヨダレものです。(笑)その帯には「待たない社会」「待てない社会」、いつしか失った「待つ」ことの意味を問う。と。
誰が何といおうと商売の要諦は「待つこと」だと思います。
待つという行為がどこか受け身で「しょーもない」と思われる節がありますが、オリハシは自信を持って言います。「待つこと」に何か問題でも?と。
逆にガツガツしすぎるのってなんだか見苦しいっ!と思っちゃうわけですよ。
ただね、いわゆる、単なる「待つ」とは違うんだよね。
例えば。。。
待たずに待つこと。待つ自分を鎮め、待つこと自体を抑えること。待っていると意識することなくじっと待つということ。これは、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れる<待つ>である。とりあえず今はあきらめる、もう期待しない、じりじり心待ちにすることはしない、心の隅っこでまだ待っているらしいこともすっかり忘れる。
とかね。
次の一言は、めちゃめちゃ分かるっ、商売っぽい。
いくよ。
細心の注意を払って無感覚であること。
期待を棄てたところでこそ本当の待つが始まるんだよ。
何かの到来を待つといういとなみは、結局、待つ者が待つことを放棄したところからしかはじまらない。待つことを放棄することがそれでも待つことにつながるのは、そこに未知の事態へのなんらかの開けがあるからである。
開いているということを、迎え入れる用意があると言いかえてもよい。何が到来するのかわからないままに、いや何かが到来しているということじたいに気づくこともなく、それでも何かの到来を迎え入れる用意があること、このことを西洋人にならって、<ホスピタリティ>(歓待)と名づけることもあるいは可能であるかもしれない。不意の客を向かい入れること、それは客という他者を<わたし(たち)>のうちに併合することではない。それは、他者を自己へと同化することではなく、逆に他者の前に自己を差し出すことであり、その意味で、他者との抜き差しならぬ関係にみずからを、傷つくこともいとわずに挿入してゆくということである。<わたし>独りが関係の意味を決めるのではない、そういう他者との関係の中にみずからを据えること、つまりみずからをあえて傷つきやすい存在とすることである。
とどのつまり、「歓待」とは、客を迎え入れる者をたえずその同一性から逸脱させるものなのである。他者を迎え入れるというのは、同時に、自分の理解を超えたものによって迎え入れられるということでもあるのだ。そしてそれはじぶん自身がじぶんにとって他者のごとく疎遠なものに転化するということでもある。「歓待」はそのような自己の崩れのなかにしか訪れえない。じぶんの枠にこだわりつづけ、それがいつか崩れるのではないかと不安に思っている人が、逆のそうした枠そのものを壊すことでやがて当の不安から解き放たれる、というのはよくあることである。
長い引用になってしまいましたが。。。
どんな販売系の本を読もうが、こんなことはもちろん書いてないわけですよ。
だけど、お店の本質、ホスピタリティとは?
と自分が考える際に、上の引用部分こそが商売の本質的なおもしろさだとオリハシは思っています。
いやぁ。おもしろかった、これ。