先日もちょこっと紹介した村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」。
村上春樹自身、エッセイと言うよりメモワールに近いと表現したように、走ること。そして小説を書くことについて自身が率直に真正面から綴っている。
1982年秋、専業作家としての生活を開始したときから25年間、彼は走り続けている。走る小説家・村上春樹。「う~ん、やっぱりこの人、好きだな。」と思わせる内容です。
「職業的小説家」と彼自身がポジショニングする感覚がとてもオリハシの胸の中に「すーぅっ」と入ってきます。
今度の4月でNakoolを継ってから10年目に入ります。
僕にとってこの9年間の商売は決して楽しいことばかりじゃありませんでした。むしろ苦しかったことのほうが多いし、自分で決心したこととはいえ、サラリーマンが羨ましくも思ったこともありました。自分のふがいなさや、だらしなさやが明白に自分に降りてくるようでした。少し良い時期があるとすぐに調子に乗ってまたささいな失敗をする。そのような3歩進んで2歩下がるみたいな時期が続きました。(ときに2歩進んで3歩下がりました。)
結果、考えたこと。「良いときは周囲のみんなのおかげ、悪いときはもちろんすべて自分の責任、良いときこそ自分を疑え。」というスタンスに落ち着きました。
自分の商才をどれだけ信じていいか?どれだけ疑っていいのか?どのくらい流行を意識しなければならないのか?どれくらい自分自身の内部を表現すればいいのか?どこまでがこの武蔵小杉的か?ここからはここではまだ無理かな?とか。。。どこまでが妥当な一貫性か?どこからからが偏狭さになってしまうのか?
とにかく毎日毎日「こうかな?こうかな?」と一人の不完全な人間として絶えず考えています。
けっこう苦しいもんです。もちろん楽しいんだけど。(笑)
その苦しみを突き抜ける原動力を僕は村上春樹の小説から得ていたのかもしれません。
少なくとも今回の「 走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだら、ものすごく共振しました。
以下、ちょっと長いけど(まただね、)
今年最後に皆さんが元気になりますように!
そして、来年も良い年になりますように。。。。
彼が何故、フルマラソンを走ったり、トライアスロンという競技にのめり込むのか?それは彼の小説を書くスタイルであり、生き方そのものだと思います。
引用します。
・・・苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。
新潟から車で東京に帰る途中、車の屋根に自転車を積んだレース帰りの人々を何人か見かけた。・・・略・・・僕らはレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て—あるいはずっと高いところから見下ろして—たいした意味ももたない、はななく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと移ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、そこに小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目に見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。
そういう効率の悪い営為のサイクルがいつまで現実的に維持できるものか、もちろん僕にもわからない。でもここまでなんとか飽きずにしつこくやってきたんだもの、とにかく続けられる限りは続けてみようじゃないかと思う。長距離レースが今ここにある僕を(多かれ少なかれ、良かれ悪しかれ)育て、かたち作ってきたのだ。その可能性がある限りは、僕はこれからも長距離レース的なものごととともに生活を送り、ともに年齢を重ねていくことになるだろう。それもひとつの—-筋が通ったとまでは言わないけれど—-人生ではあるだろう。というか、今更ほかに選びようもないではないか。
来年もがんばっていきましょう!
4日にお会いできるかた、楽しみにしています!
オリハシ