昨日のツーショット写真の二人の会話でもそーだった。
「いつもネットでは会ってます。」という感覚。
最近、会ってないんだけど、割と近くに感じるよね。
そーいう感覚ってこの「オリハシ日記」を公開しだしてから頻繁に言われるようになった。
うん、もしかしたら茂木氏の言う「クオリア(感覚の質感)」とはまさにこーいうことを言うのかな?と。
「脳と日本人」
松岡 正剛 (著), 茂木 健一郎 (著)
この両者の対談集の中にも興味深い考察が。
茂木:・・・ぼくもウェブ上に、5年くらいほぼ毎日、日記を付けています。
松岡:そうですか。タイトルは?
茂木:「クオリア日記」と言います。なぜ書くかというと、われわれは、「普遍」ということを自分のプライベートな生活とは遠く離れた、まさに遠い世界の中にあると思いがちだけど、普遍の「宿」は、このちっぽけで陳腐、猥雑な日常の中にしかないと気づいたからです。
オリハシ自身もこの日記を5年続けて思うことは大きなネタを披露する事ではなく、なるべく日常のことが、それこそ陳腐で、猥雑かもしれないことが、実は多くの人が共感することなのかなぁ。。。なんて思うわけで。
以下、続きです。
茂木:・・・生理学者の三木成夫の言う「生命記憶」のような遠くにあるものの記憶は、明示的には思い出せない形、脳の解剖学的な構造の中の履歴のようなものとして存在するわけです。記憶に関係する海馬は、人間においても、ラット、さらに下等な生物においてもずっと海馬としてあって、遠くの記憶は、今、ここにいる自分の実存の奥深いところに串刺しにされている。ですから、遠いということを、自分自身がすでに引き受けてしまっているという自覚を持つことがすごく大事だと思います。その中にこそ、秘められた豊穣さがあるのだと。
松岡:その通りだね。ぼくは全集になった『千夜千冊』の第一巻を「遠くからとどく声」と名づけた。
・・・(略)・・・
遠くを感じることが近さを強化していくんです。ニュートンのリンゴと星の関係のようにね。エディントンの近日点移動の観測のようにね。・・・
遠くを感じるから近さが強化できる。
「あの日記読んだよ。」「あの日記、おもしろかったよ。」・・・等々、久しぶりに会う人達から言われる。
そうだな。
よく考えたら、毎日、顔をつきあわせている人よりもこの場所で多弁になっていることの方が多いかもしれない。