実は今日も、少し振り返る日だったりする。
一年のうちに少しだけ反省し、心を入れ替える日が歳を重ねるにつれて多くなるのは気のせいだろうか?
今日も午前中、Kinjo君が一人で来たので、ふと、そんな話になったわけだ。
もう9年だよ。と。
商売柄?!かどうかはよく分からないけど、
いろいろと悩み、相談系の話、あるいは何かをぶちまけられるような話(過度な自慢話とか、「どーだ、オレすごいだろ」的話。)を聴くことがある。(笑)
誰かとコミュニケーションをする際に、当然のように行っている「聴く」という行為。黙ってとにかく聴く。というのはちょっと疲れることも多い。損なわれる感覚。と言うのだろうか?
とにかく受け止めたり、受け入れたりするのはそーとーにパワーのいる行為なわけですよ。
この本はもう随分前に読んだんだけど、「聴く」ということを「他人を受け入れる」という行為としてあらためて考えている本です。
「聴く」ことの力―臨床哲学試論鷲田 清一 (著)
よくよく考えるとオリハシの父親は、よく話を聴いてくれた人でした。
社会人になったオリハシは父親とファッションの話、仕事の話が出来るようになったのが嬉しかったんでしょう、きっと。
飲みながら、20代中盤のオリハシは随分とビッグマウスだったように思います。「こーしたほうがいいよ。」とか、生意気にも言ってたことが思い出されます。。。今だから言えるのは、「そりゃ、お前が、自分の会社で、自分の仕事でやりなさいよ。」って感じなんですが。(笑)
父は、「う~ん、そーかも。」という顔をしながら聴いていました。
今、思うと「言葉そのものを遮らないで、黙って聞く」ということに徹していたように思います。そして、今だから分かることは、「黙って聞く」ということとその内容に「同意を与える」ということは違う。ということです。
「言葉は遮らないが、内容には同意しない」という内容だってあったはずです。
父が病床から綴ってくれた最期のメッセージがありました。
「知治、お前のその自信はどこからくるんだ?」と。
オリハシはこのメッセージを生涯携えていくと思います。
その後、「ためらいの倫理学」(著:内田 樹)という本を読みました。内容はほとんど忘れてしまいましたが、どうしても忘れないフレーズに出会うことになりました。
それは、
「自分の正統性を雄弁に主張できる知性よりも自分の至らなさを吟味することができる知性のほうが知性として私は好きだ。」
というフレーズです。
父が言いたかったのはこのことじゃないのか。
そのとき思いました。
今日は父の命日です。
扱っている服はこの9年間で様変わりしましたが、オリハシの方法論としての商売はきっと父が見つめていた線上にあるものだと思っています。
そうだよね?
人は存在するとは別の仕方で存在しつづけるものなのです。