なるほどって思うのでちょっと書いてみます。
一本のゴムのホースがある。そこに絶えず水道の蛇口からの水が流れている限りは、ホースの中にゴミは溜まらない。
人間というものを、この一本のゴムホースとして考えてみたら、五十歳の人には、五十年にわたって溜まった、さまざまなゴミがそこに溜まってくる。五歳の子供にも五年間のゴミが出来る。
人の持つホースの中には、その環境によって様々なゴミが溜まる。
つまり汚い水ばかり流れれば、それだけゴミが溜まってくる。
そこに、自分に危害を加えることの断じてない、愛情の伴った水が入ってくる。その新しいきれいな水がホースの中で一杯になってくると、詰まってたゴミの一部が押し出されてくる。
何かが改善されていくとき、一見、悪化したような症状を示す場合がある。
奇異な状態を、ゴミだと見破らなければ、水の送り手は、落胆し、水を送り続ける力をなくしてしまう。水を止めたら、ゴムホースのゴミは、さらに増えてしまうのだ。
ゴミが出きってしまうまで、水道の栓を閉めちゃいけない。
木と木をこすり合わせて、火をおこすのと同じ。せっかく煙が出てきたのに、もうしんどいからってやめてしまったら、また一からやり直さなければならない。
膿を出さなければ腫れ物を治すことはできない。なにか病気が敗れ去っていくときの悪あがきというものがある。
大事なことは、そのゴムホースには、きれいな水が注がれないことにはどうにもならないこと。
酒好きの老医師、小堺医師が名付けた「ゴムホースの原理」。
この原理は人生全般に通ずると老医師は言う。
何か災いが起こったら、自分の汚いゴミが、今出てるんだって思ったらいいじゃないか。と。
しかし、それには、自分の中に清浄な水が注がれていることが前提なのだ。
そして、その清浄な水をどのようにして自分の中に注ぐのか?
自分にとって、何が清浄な水なのか?
う~ん、その判断が一番難しい。
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「草原の椅子」(著:宮本輝)より