久しぶりに司馬遼太郎。
お恥ずかしながら、「龍馬がゆく」以来。
写真では1.2巻だけですが、4巻まで半分まで読みましたよ。
なるほど、と思うところあれば、なんかちょっとこの感覚気持ち悪い。と感ずることもありつつ、それでもわりと集中してグイグイ読んじゃってます。
ウチの奥さんが今、「龍馬がゆく」読んでるので、我らはオリンピックどころではありません。司馬遼太郎です(笑)
っていうか、相変わらずTVないんですけど。
なんでもスノボのハーフパイプの選手?
何いうのか知りませんが(笑)
服装が乱れてるとかで問題になってるようですね。
この「坂の上の雲」の3人の主人公のうちの一人、
正岡子規はこんなことを言ってますよ。
「美に基準はあるまいなァ。あしは、美に一定の基準なしとおもうとるぞな。美の基準は、各個人の感情の中にあり、同一人物でも時が経つと基準がかわる。あしは美に一定の基準なしとおもうとるけん、なにが名文かは、それを読んで感ずる人次第ぞなもし、清サン」(坂の上の雲二、321頁)
ファッションやの言う事じゃないかも?ですが、そんなとこで着崩して目立つ必要ないですね。ドレットヘアなんだからビシっと着ても十分目立ちますよ。むしろそっちの方がかっこよさそうですが。。。
時が経つと変わるんでしょうね。
それにしても、正岡子規はすごいです。
日本文学、とくに和歌にたいしての攻撃はビシビシくること言ってます。
「和歌の腐敗というのは」
と子規はいう。
「要するに趣向の変化がなかったからである。なぜ趣向の変化がなかったかといえば、純粋な大和言葉ばかり用いたがるから用語がかぎられてくる。そのせいである。そのくせ、馬、梅、蝶、菊、文といった本来シナからきた漢語を平気で使っている。それを責めると、これは使いはじめて千年以上になるから大和言葉同然だという。ともかく日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみはしらぬ」
「つまりは、運用じゃ。英国の軍艦を買い、ドイツの大砲を買おうとも、その運用が日本人の手でおこなわれ、その運用によって勝てば、その勝利はぜんぶ日本人のものじゃ。ちかごろそのようにおもってる。固陋はいけんぞな」
と、子規は、熱っぽくいった。
最後の運用を編集に言い換えるとすごくファッションっぽいなって思うわけです。
型に囚われない、常にそうありたいものです。