消費と浪費は違うのか?
そんなこと考えたことある?
浪費のほうが、無駄遣いな感覚あるよね?
よし、今日はチョコレートを思いっきり浪費してくれ!
で、これを読むとちょっと感覚が変わります。
「暇と退屈の倫理学」(著:國分功一郎)
新鮮だなって思ったのは「浪費と消費」の話。
浪費とはなにか?浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。
浪費は必要を超えた支出であるから、贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない。
浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできなし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。(144-145p)
これ、分かってるようで分かってない。
新鮮。
実は、浪費はいつかストップするっていうのをオリハシは経験的に知ってる。
「あぁ、この人、こんなに買っちゃたら、ずっと続かないな。」
っていうことを何度も経験している。それぐらいのお方がおるんですよ。ホントに。
すごいんだから、ホント。
もちろん一度にたくさん購入してくれるのは嬉しいよね。
だけど、底知れぬ恐怖があるのよ。
そして何より、浪費されるのは自分自身をも削り取っていくのね。この感覚はちょっと理解しがたいかもね。
ある意味ドラッグだね。この商売(笑)まぁ、いいや。
だから、消費してくれるように・・・変わってくれると長続きする(笑)
あれですよ、ナクールの服やオリハシの考え方に自分なりに意味を見つけてくれるように・・・
で、この本に戻るね。
浪費はどこかでストップするのだった。物の受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費はけっして満足をもたらさない。
なぜか?
消費の対象が物ではないからである。
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。(145-146p)
どんなにおいしい食事でも食べられる量はかぎられてるよね。
だけど、雑誌やテレビで、この店がおいしい、有名人が通ってるなんて宣伝されると、人々はその店に殺到する。「あの店に行ったよ。」と人に言うために。
これが消費なのよね。
ちょっと切なくなってくる?
ははは。
商売してる人がこういうことあんまり言うもんじゃないかな。
で、人を終わらない記号のゲームへと導くこの消費社会。
せわしなく意味を追いかける。
しかし、人は満たされない。
ということをわかりやすく説明するのにこの「暇と退屈の倫理学」では
映画「ファイト・クラブ」で説明しています。
ファイト・クラブ。
観たことあります?
デヴィットフィンチャー監督。
ブラッド・ピット、エドワード・ノートン。
これは名作。
まだ観てない20代なかたとかいたら絶対観た方がいいです。
オススメ。
最近、DVDで見返してみたらビックリ。
若いときに観たときよりも数段理解度が深まるよね。
(このころ「イケア」って知らなかったし、オレ。)
ラストシーンはせつなく、はかない感じ。
ホント、昔観た映画、見返してみてよ。
あ、なんかオレも成長したなって思う(笑)
是非、「ファイト・クラブ」からの「暇と退屈の倫理学」で。
おもしろいよ。
影響されやすい人は上司にため口になっちゃうかも。
「殴ってみろよ、おい。!」
なので気を付けてください。
余談ですけど。
1999年から2000年くらいに「ファイト・クラブ」のブラピみたいなワインレッドのレザーをよく売りました。(笑)
フラワープリントのシャツと合わせて。。。