今期、最も多く読んだ作家、伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」っていう小説に「プラナリアの実験」って話が出てきてね、真偽のほどはおいておいて、この話、なかなか考えさせられたわけ、で、あ?なんか似た話知ってるかも?ってね。
で、その実験の内容はこんな。要約してあります。
二センチくらいの小さな動物で脳もないような原始的な動物、プラナリア。それは水がないと生きられない。で、そいつを容器にいれる。入っていた水を抜く。そして水は一箇所にしかないようにする。そこにライトを当てる。そうするとプラナリアは水を求めて移動する。で、それを繰り返すとプラナリアは学習し、ライトが当たる場所に移動するようになる。たとえ水がなくてもライトが当たる場所に移動するという。
この実験をさらに何度も繰り返すとどうなったか?・・・ある時点から今度はまったくプラナリアは動かなくなった。ライトをいくら当てても、移動しなくなった。そうして水がないまま死んだ。これはプラナリアが同じ繰り返しに『飽きた』からじゃないかと言われてる。容器の内側の材質を代えたり、状況を変えるとまた学習を続けるらしい。
この原始的な動物ですら、同じことの繰り返しよりも自殺することを選ぶという話。
何十年も同じ生活を繰り返し、同じ仕事を続けている人間、その延々と続く退屈を、人は「人生とはそういうものだ」とそう自分に言い聞かせているんだ、という。
僕はね、商売しててさ、同じコト繰り返しを退屈とは感じないんだけどね。
長年にわたって必死に手を尽くしてきても乗り越えられない壁みたいなものが立ちはだかってるとさ、少しずつプラナリアみたいに動かなくなってしまうのではないか?っていう恐怖はいつも感じてるんだよね。
さて、もう一つ、為末大さんのブログに書いてあった興味深い二匹のカエルの話。ちょっと引用します。
ある日蛙が二匹穴に落ちた。穴の高さはとても越えられないような高さで、二匹の蛙は必死でその穴から出ようとして飛んでいたが淵には届かない。
そのうちに他の仲間たちが集まってきて二匹を応援し始めた。がんばれがんばれ。二匹の蛙はその声を聞いて頑張ったけれどやはりそれでも淵には届かなかった。
応援の声は次第になくなり、淵から覗き込んでいる仲間たちは諦めの声を上げ始めた。もうだめだろう、仕方ない。諦めた方がいい。そうした声が二匹の蛙にも届いてきて、一匹の蛙はついに跳ぶのをやめてしまった。そして座り込んで静かに死んでいった。
もう一匹の蛙はそれでもずっと跳び続けていた。もうだめだ諦めた方がいいという声が聞こえる中、何度も何度も跳び続けた蛙はついにある瞬間穴の淵に到達し、穴から這い出てきた。
仲間たちは驚き、その蛙の元に集まり、素晴らしい、よくやった賞賛の声をかけた。ところが蛙は仲間たちをぽかんとした顔で見て全く反応しない。仲間たちも怪訝な顔をしてその蛙を眺めている。
穴から飛び出した蛙は耳が聞こえなかった。励ましも、罵りもその蛙には届いていなかった。ただその蛙からは覗き込んでいるみんなが見えていただけだった。
僕はこの2つの話からいろんなことを考える。
まずは繰り返されることを面白がる精神。自分に飽きさせない思考すること変化を作ること。思考し行動し続けるにも体力、精神力がいるってこと。
多くの応援、声援は力になるが、しかし、本当に応援して欲しい人に「もう諦めたほうがいい」って言われたらショックだろうなぁとか。
成し遂げたいのなら、ひたすら為すべきことを為せってこと。
努力は夢中に勝てないっていうけど、まさにそのとおり。
無我夢中でいく。