まいど、木曜日のオリハシ登場です。
日経ビジネスオンラインの記事で川島 蓉子さんの「ダサい社長」が日本をつぶす!」っていうコラムがあって、対談相手が糸井重里さんだっんでね、ちょっと前に読んだんだけど、「お、そうそう!よく言語化してくれました!」って内容だったわけよ。
かなり読み応えあって、「共感性」+「意外性」=「面白い」とか、「いい時間」というのは、「いい人生」のことだとかね、いろいろ深堀りしていきたいテーマだったんだけど、今日はかっこいいとダサいの話でいってみる。
詳細はこちら読んでくださいな。
「ダサい、野暮、下品と新市場:糸井重里さん 第3回 実はかっこよくてもダサくても、どっちでもいい」
かっこいいとお洒落がイコールではないかもですが、お洒落の延長にあるものだとも考えられます。ちょっと引用します。
「かっこいい」と「ダサい」の谷
川島:糸井さんは、どんな球を投げても、すごいところから打ち返してくる。実に「かっこいい」なあ、と思うんですけど、そもそも「かっこいい」と「ダサい」とは、何がどう違うんでしょうか?
糸井:実はかっこよくてもダサくても、どっちでもいいと思うんです。だって、ダサくても好きなものって山ほどあるじゃないですか。それは自分についても同じなわけで、「俺はここがダサい」と思うところ、あちこちにありますよね。そのダサさも含めて自分だし。
川島:そうですね。
糸井:一方で、さっき言われたように、「糸井さんのここがかっこいい」という他人の目線もありますよね。「かっこいい」というのは、ちょっと社会性があることなのかもしれません。
川島:「かっこいい」は他人の目線が決めている?
糸井:うん。キャッチボールでミットの音が鳴るみたいに。「かっこいい」は一人だけでは決められない。人から見てというところが、どこかあると思うんです。
糸井:他人から見て「とてもかっこよく見えている人」というのは、世間との関係で生きてきた時間や、その人の「かっこよさ」によってさまざまな影響を与えているわけです。となると、自由なんてほとんどないんです。
糸井:木村拓哉くんなんかそうですよね。彼は、人が見ていないところでガードレールをポンと跨ぐ時だって、かっこよくなきゃいけないわけです。それは、やっぱり自由ではないでしょう。だから、「かっこいい」というのは、社会の中の価値観の話になるんです。
川島:ああ、確かに木村拓哉さんのような「かっこよさ」は、不自由ですね。一方で、自分で「かっこいい」と思っている人って、世の中にけっこういますよね。
糸井:そういう人は、「人から見た=社会から見た価値」、つまり「かっこいい」を「私は持っています」という取引を、毎日自分の中でやって、社会に見せているわけでしょう? その取引の中にしか「かっこいい自分」がいないわけだから、ちょっと哀しい。
川島:そういうのって、けっこう誰からも見えて、わかっちゃうものなんですが。糸井:そういう人からは、ひっきりなしに屈託が出ていますから。
川島:「かっこいい私」という屈託が見えちゃうっていうのが、ある意味「ダサい」につながります。
糸井:見え見えだとそうなっちゃいます。「したいこと」と「できること」の間のところに、「ダサい」が入ってくるわけで。人って「したいこと」はあるけれど「できないものはできない」。
川島:なるほど。「したいことができる人」は「かっこいい」けれど、「したいことができない人」がかっこつけると「ダサい」になっちゃいますね。
太字はオリハシが強調したかったとこです。
これね、思わず「屈託」って意味を調べちゃうよね。
そうなのよ、たまに空っぽっていう言葉をオリハシは使っちゃうんだけど(言葉悪くていつも反省・・・)、お洒落とか、かっこいいの屈託が出てない人って中空な感じなんだよね。だから、デザインはシンプルなのにサイズ感の合うモノを着せてあげるだけで、急にお洒落になる。
本人はお洒落でかっこいいって意識してないから、つまり「かっこいい」を「私は持っています」という取引を、毎日自分の中でやってないから、逆にかっこいい!が滲みでちゃう!と。
ボクなんかはね、意外に危ういところにいるよなーっていつも感じてる。
若い頃からお洒落とか、ファッションばかりしかアタマの中にないのって格好悪いんじゃないのか?って考えていたタイプだから。
それをナクールで生業としてるわけだから、かっこいいやお洒落は社会の中の価値観の話にやっぱりなるわけだし、不自由なところがあるんだよね。
それでもやっぱりその不自由さも含めて、楽しんでいくのがナクール人生の醍醐味。