お客さんからそんなふうに言ってもらえることがしばしばあります。
写真道場さんとのコラボ企画を初めて2年と4ヶ月経つわけですが、初回からの2年間、24回はすべてナクールの常連達をコーディネートしてきたわけです。
普段だったら、その人が選ばないかもしれないけど、着せたいなって思うものを自分なりにコーディネートに組み込んで撮影に臨んでいたわけです。これってモデルになってくれる人の性格とかよく理解して、解釈することが大事だよなって思うんだよね。
そうすることでモデルになった人も新しい自分を発見してくれたらいいよなって考えてたわけ。
そうは言っても、オリハシ自身も絞り出すように選んでたわけですよ。着せてみて、プロフェッショナルである久門さんに対峙するモデル達を客観的に見ると自分自身にも「新しい発見だ!」っていうことの連続なんだよね。結局。
今年は自分でモデルをつとめてるけど、またこれはこれで発見が多いのよね。細部がね、特に自分では確認できない部分がね。
もちろん自分でコーディネートは考えてるわけだけど、それ以上に何かを引きずり出されてるぜっていう感覚をずっと持ってたのよ、カメラマンである久門さんとモデルになってくれたナクーリスト達に。
で、最近、村上春樹の「騎士団長殺し」を読んだんだけどね。
「おお!これこれ!分かるよ、オレは」っていう描写があったのよ。
絵描きである主人公が近所に住む免色さんの肖像画を描き、完成して本人に見せたときのシーンです。
「しかしどのようにして、あなたはこの絵を発見することができたのですか?」と免色さんは私に尋ねた。
「発見した?」
「もちろんこの絵を描いたのはあなたです。言うまでもなく、あなたが自分の力で創造したものだ。しかしそれと同時に、ある意味ではあなたはこの絵を発見したのです。つまりあなた自身の内部に埋もれていたこのイメージを、あなたは見つけ出し、引きずり出したのです。発掘したと言ってもいいかもしれない。そうは思いませんか?」
そう言われればそうかもしれない、と私は思った。もちろん私は自分の手を動かし、自分の意志に従ってこの絵を描いた。絵の具を選んだのも私なら、鉛筆やナイフや指を使ってその色をキャンバスに塗ったのも私だ。しかし見方を変えれば、私は免色というモデルを触媒にして、自分の中にもともと埋もれていたものを探り当て、掘り起こしただけなのかもしれない。(第1部299頁)
人をコーディネートすることと肖像画を描くことって何かしら共通するんだろうな。
絵描きである主人公はこんな科白も言います。
「人物を描くというのはつまり、相手を理解し解釈することなんだ。言葉ではなく線やかたちや色で」
そりゃ商売だから売れればいいけどさ、やっぱりナクールの持ち味は「なぜこれが、この服がセレクトされているのか?」っていうところだから、単品からはじまるけど、ついフィットする相棒を捜したくなるような・・・連続性の中で買ってもらえたら幸せだなーって
お互いに自分の内部に埋もれていたイメージを見つけ出し、引きずりだし、発掘していきませんか?
オリハシと話ながら。
いやぁ、服を選ぶって楽しい。ホントに。
※というように、オリハシの読書スタイルの特長はストーリーの筋を追って楽しむのと平行して、自分事に引きつけて考えられることはないか?という観点から文章を拾っていくんです。